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信仰告白


当教会は2011年4月17日の臨時総会まで「リーベンゼラ日本宣教団 信仰告白」を当教会の「信仰告白」としていました。ご参考です。

「リーベンゼラ日本宣教団 信仰告白」

 当団体および、当団体に所属する教会員は、聖書に基づいてその真理を告白してきた世々の教会とともに、 次のように告白する。

(聖書)

1. 旧新約六十六巻よりなる聖書は、神のみことばである。

聖書は、はじめそれぞれの著者によって、聖霊の完全な指導と監督のもとに、 記された。その結果、その記述に誤りがなく、神が救いについて人々に啓示しよ うとされたすべてのことを含み、信仰と生活との唯一、絶対の規範である。

したがって、聖書に誤りがありうるとすること、聖書は客観的には神のことばではないが 人間の諸経験によって神のことばになるとすること、聖書の上に、または聖書と並列した権威 を認めようとすることは、容認できない。

(まことの神)

2. 生けるまことの神は唯一で、永遠に父、御子、聖霊の三位であられる。

 

したがって、御子または聖霊の神性を否定すること、あるいは被造物、祖先の霊など を神とすることは、容認できない。

(神のみわざ)

3. はじめに神は、ことばをもって、無から目に見えるもの、 見えないもののすべてを創造された。

 

神はすべての被造物を保ち、支配しておられる。

 

したがって、無神論や、その他、神のご主権を否定し、あるいはそれに制限を加えよ うとすることは、容認できない。

(罪)

4. 人類の父祖アダムは、神のかたちにかたどって創造され、神との正しい交わりに あったが、サタンの誘惑により、神の戒めにそむいて罪を犯し、罪の汚れと刑罰をこうむり、 霊 的また肉体的な死の支配下におかれた。

全人類は、このアダムにおいて罪を犯したので、罪の性質をもって生まれ、新しく生まれ ないかぎり、罪の汚れと支配と滅びの中にある。

人類のすべての苦悩と悲惨の根源はここにある。

したがって、人の原罪を否定すること、あるいは新生なくして社会の制度的、環境的改善 によって救いをこさせようとすることは、容認できない。

(イエス・キリストとそのみわざ)

5. 主イエス・キリストは、真の神にして真の人である。

主は聖霊によってやどり、処女マリヤより生まれ、私たちの罪のために、 私たちの身代わりとして十字架の上で死に、葬られ、三日目によみがえられた。

主は天に昇り、神の右に座して、いま私たちのための大祭司の務めをしておられる。

 

したがって、イエス・キリストの神性あるいは人性のいずれかを否定すること、十字架の 勝利を否定すること、復活が歴史的事実であることを否定することは、容認できない。

(救い)

6. 主イエス・キリストの身代わりの死のゆえに、主を信じる者は、みな、ただ恵みにより、 その信仰によって義と認められ、神の子とされ、罪の支配と刑罰から解放され、永遠の命を与えら れる。

したがって、救われるためにはキリストのあがないのみでは足りないとすることは、 容認できない。

(聖霊のみわざ)

7. 聖霊は、罪人に罪を示し、悔い改めさせ、キリストを救い主と告白する信仰を与えられる。

また、信じる者の内に助け主として住み、絶えずとりなし、日々、献身と聖潔の生活をおくる力を与え、 こうしてキリストのかたちにかたどらせるみわざをなし続けられる。

したがって、聖霊のみわざを、キリスト者の中の特定の人、あるいは特定の体験のみに限定することは、 容認できない。

(キリスト者)

8. キリスト者は、キリストの恵みによりたのみ、みことばと祈りによって神のみこころに生きる。

 

キリスト者は、神の栄光のため、世の終わりまで共にいてくださるキリストにすべてをささげて従い、 全力をつくして神を愛し、兄弟姉妹につかえ、また、世にあってキリストの証人として歩むよう召されている。

 

したがって、主の戒めを無視し、汚れた生活に安住し、あるいは聖日を軽視するような生き方は、 容認できない。

(教会)

9. 聖霊によって新生した者の集まりである教会は、キリストをかしらとし、教会員一人ひとりを 器官とするキリストのからだである。

 

教会は、かしらであるキリストにあって成長する。すなわち、教会は、聖書を学び、礼典を守り、 キリストにある一致と純潔を目ざして戦い、全世界にみことばをのべ伝えつつ、主の再び来られる日を 待ち望む。

 

したがって、教会を単なる人間的な制度あるいは運動とすることは、容認できない。

(再臨)

10. 主イエス・キリストは、やがて、栄光のみからだをもって、見えるかたちで再臨される。

 

そのとき、キリスト者も非キリスト者も、それぞれからだをもってよみがえらされ、永遠の祝福また は永遠の刑罰へとわかち定められる。

 

終わりに主は、すべてのものを新たにし、み国を父なる神にわたされる。

 

したがって、主の再臨を否定すること、主はすでに再臨されたとすること、あるいは主は単に天的、 霊的にのみ再臨されるとすることは、容認できない。