牧師のショートメッセージ
「救い主を見るために」
浜田文夫 牧師 2025年4月
イエスは彼に言われた。「私に何をして欲しいのですか。」すると、その目の
見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」
そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」
すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。 マルコの福音書10:46-52
4月6日は牧師が交代して最初の礼拝となりました。これまで、まったく知らなかった者同士が、主イエス・キリストにあって、既にひとつであることの幸いとその不思議さを深く感じています。ここで初めてお会いする方々もまた、キリストの一方的な恵みに捕らえられて、罪と滅びの中から引き上げられて、キリストのものとされた証しを持っていて、私たちはそのところから、これからの歩みをともに始めることができるということは、神の確かなみわざです。この4月最初の主の日に、教会学校の進級式も行われました。主の食卓にも与りました。教会に与えられた子どもたちを、神の愛と義の中に導いていく責任が教会にはあります。そして、その教会はともに主の食卓を囲み、主イエス・キリストの救いの恵みを、一緒に味わいます。こうして2025年4月からの教会の歩みが始められたことは、これが神の教会であることの証しです。この集まりの真ん中に主イエスご自身がともにいてくださるのです。目には見えないけれども、そのご臨在の主イエスに目を向けて、みんなでこの同じ方を見上げて歩んでいきたいと願います。
けれども、私たちがこの方から目を離したとき、また、この方が見えなくなったとき、教会の歩みはにわかに危うくなります。マルコの福音書10章46節以下に登場する目の見えない物乞いであったバルティマイは、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫びました。自ら目が見えないことを自覚して、主イエスにあわれみを求めることができること、そのこと自体が一つの幸いと言えるでしょう。パリサイ人たちは、ヨハネの福音書9章41節で「今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります」と主イエスから言われ、見るべきものを見ていないことに気づいていない罪を指摘されました。
バルティマイは道を進まれる主イエスを「ダビデの子よ」と呼んでいます。主イエスはダビデの子であり、それは救い主を意味することを、マタイの福音書はその始めから「ダビデの子、イエス・キリストの系図」を書くことによって明らにしました。しかしマルコの福音書では、主イエスが「ダビデの子」であることは、ここで初めて明らかにされることでした。その意味でマルコの福音書において、バルティマイは主イエスを救い主として公に告白する最初の人となりました。
バルティマイの「目が見えるようにしてください」との願いは、盲目による生活の困難さや不自由さから解放されることを求めたのではないし、この美しい世界や人々の顔や姿を見たいと願ってのことでもなかったと考えます。そうではなくて、いま自分が「ダビデの子」と呼び、いま自分の目の前におられる救い主イエスの姿をこの目で見たいというものであったのでしょう。ですから、彼は主イエスによって癒されたあと、「道を進むイエスについて行った」とマルコは書きます。このとき、主イエスの進む道とはエルサレムへと続いていました。そこで主イエスは捕らえられ、さばかれ、苦しみを受け、十字架につけられて殺されます。しかしそのことによって私たちの救いを実現してくださるのです。バルティマイはその救い主イエスの姿を、癒していただいて、見えるようになった自分の目で見ることになるのでしょう。バルティマイはそのために目が見えるようにしていただくのです。彼が受けたその恵みが私たちにも与えられていることを、ともに覚えたいと思います。