牧師のショートメッセージ
「キリストと教会を指して」
浜田文夫 牧師 2025年11月
エペソ5章21節-33節
このエペソ5章21節以下は、結婚式の式文に用いられ、夫婦となる二人への教えとしてよく読まれてきたが、最近は男女平等の観点から、ほとんど読まれることがなくなりました。しかし、31節で「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となる」という創世記が伝える夫婦の奥義を引用して、「私は、キリストと教会のことを指して言っているのです」と言います。それは、この個所全体について言えることでしょう。
23節の「キリストが教会のかしら」ということと、30節の「私たちはキリストのからだの部分」だということばは、互いに響き合い、その間に書かれていることを挟み込んでいます。「教会のかしら」と「からだの部分」という関係が、ここで語られている勧めの土台としてあるのです。そしてキリストが教会のかしらであるのは、私たちの罪のために死なれ、私たちの救いを成し遂げてくださったキリストを、神が教会のかしらとして与えて下さったからです。教会はそのキリストに従うところです。ここに「従う」と訳されたことばは、ただ言われた通り指示に従うのとは違い、「下に置く」という意味からなり、「自分を誰かの下に置く」ことを意味します。教会はキリストの下に自分自身をおくところです。
けれども、救いを成し遂げてくださったキリストは、「神の御姿であられる」方でしたが、「神としてのあり方を捨て」て、「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられ」(ピリピ2:6-7)ました。キリストが私たちの下に立たれ、そこで私たちを支えるようにして、私たちの罪を負って下さり、私たちに対するご自身の深い愛を明らかにされました。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられた」(25節)のです。
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものと」し、「栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため」(26節、27節)だと言います。それは婚礼の日に花婿の前に立つ、汚れ無き花嫁をイメージしています。「水の洗いをもって」とは、洗礼のことを意味しています。洗礼は信仰を告白した私たち個人のことでだけではなくて、「教会をきよめる」というキリストのみわざでもあります。私たちはそのような教会を、信じる対象としてよりも、見える惨めで罪多き現実として捉えることが多いのですが、「栄光の教会を、ご自分の前に立たせる」日のために、キリストがまさにこの教会を愛し、教会を今も支えておられることを、信じることが大切なのです。
そして、そのために、そのように愛し従うことが、夫と妻との関係にも求められているのです。
