牧師のショートメッセージ
「見よ、神の子羊」
浜田文夫 牧師 2026年6月
ヨハネの福音書1章29節-34節
バプテスマのヨハネは、証しのために生まれ、証しのために生きた人でした。それは自分が生まれる前からそのように召されたというような自分自身についての証しではなく、「光について」の証しでした。ヨハネは自分の後から来られる方を、自分にまさる方として証しました。その具体的な内容が19節から「さて、ヨハネの証しはこうである」といって始まります。そこで、ヨハネは、自分は水でバプテスマを授けているが、「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます」と証言します。けれども、そのときそこにはだれもいないわけで、その証言の信ぴょう性は不明でした。
そこへ、「その翌日」主イエスがヨハネの方に来られました。ここで、主イエスは何のために来られたのかは、何も書かれていません。何も語られず、何もなさっていません。ただ、ヨハネの証言を確かなものとするために、そこに来て下さったかのようです。ですから、ヨハネは「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と言って、この方こそ、自分が証してきた方であることを示します。ここで「子羊」と訳されたことばは、通常用いられる羊の子どもという意味ではなく、いけにえとしてささげられる子羊を意味しました。ユダヤ人たちは、それは出エジプトを記念する「過ぎ越しの祭り」の時に屠られる「子羊」のことと理解したでしょう。実際、この福音書は、主イエスが十字架に掛かられた時を、「過ぎ越しの祭り」の前日、その準備のために各家庭で「子羊」が屠られるタイミングだったとしています。
ヨハネはこの方が「明らかにされるため」に、バプテスマを授けていると言います。彼のバプテスマは水のバプテスマでした。それは悔い改めのバプテスマとも呼ばれています。人々に罪を示し、悔い改めを求めたのです。しかし、人は罪を示され、どんなに悔い改めても、それで罪から自由になるわけではありません。使徒パウロはローマ人への手紙の中で、「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っている」自分を、「本当にみじめな人間」と呼びました。罪を悔い改めることは大事なことですが、それだけでは、何も変わりません。ですから、悔い改めのバプテスマを受ける、そのところで、「この方」が、明らかにされる必要があるのです。「この方」とは、「世の罪を取り除く神の子羊」なのです。そして、その方を「見よ」とヨハネは言うのです。「この方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者」だとヨハネは証言しました。それは主イエスの聖い霊に満たされることです。その聖さとは、主イエスが十字架の上で死なれ、三日目によみがえられたことによって、人の救いが実現した結果として可能となった聖さでもあります。
その「世の罪を取り除く神の子羊」である主イエスが、ヨハネの証言の中に立つために、ヨハネの方に来られました。そして、私たちのつたない証しの中にも、立ってくださいます。私たちもまた、この方を見るようにと、この方を証しするのです。
