牧師のショートメッセージ
「神の恵みの務め」
浜田文夫 牧師 2025年7月
パウロはエペソ人への手紙3章1節で「私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」と語ります。実際に、この時パウロはローマ皇帝のもと、牢に繋がれていたと考えられています。そして、古代の伝承などに基づいて広く知られている話によると、パウロは悪名高きローマの皇帝ネロによって処刑されました。ネロが皇帝であった期間は紀元64年~67年なので、その間のどこかでパウロは殉教したことになります。伝統的な理解では、この手紙は、そのようなパウロの最後の数年の間に獄中で書かれたとされています。
この手紙の6章には「私はこの福音のために、鎖につながれながらも使徒の務めを果たしています」とあります。囚人とはまさに牢に入れられ、鎖につながれて、卑しめを受け、みじめな状態で、人としての尊厳は何も保証されていなかったのでしょう。しかし、パウロは自分のことを「ローマ皇帝の囚人になっている」とは言わず「私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」と言います。それは最も自分らしくキリストを証し、福音に仕え、使徒としての生き方を貫いているのだ、ということでしょう。パウロのそうした信仰に倣え、と言うのはやさしいですが、私たちは当時の囚人が受ける屈辱や苦しみを知りません。世の中から隔離され、閉鎖された空間で、身に覚えのない不当な仕打ちに耐え続ける意味は何なのかを問わざるを得なくなるでしょう。そこで、なお、パウロが「私は、神の力の働きによってわたしに与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました」と言っているのです。パウロが囚人とされたのは、神が無力であったからではなく、神がその力を働かせてくださったからだで、それを自分に「与えられた神の賜物」だと言い、その「神の恵みの賜物」によって「この福音に仕える者に」なったと言うのです。そこに、先に救われたものとしての責任感だとか、義務感などというものとは全く無縁の、自由と喜びを感じます。私たちは囚人として鎖につながれるわけではありませんが、しかし、私たちは何を指して「私に与えられた神の恵みの賜物」と呼ぶのかを、パウロのその姿は問いかけています。
ある人が、パウロはいきなり自分の話しをする、と言います。1章から2章までに書かれていたことはスケールの大きな「神のみこころ」と「ご計画」でした。天地が造られる前からの、神の救いのご計画でした。「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということ」(6節)でした。けれどもここでいきなり話題が、自分のことという小さなこととなると言うのです。しかしパウロはそう語らざるを得ないのでしょう。自分が語る「福音」、「キリストの奥義」は、いま自分自身に起こっている「神の力の働き」だからです。それは、自分が置かれているどのような状況の中でも止むことがないと、パウロは証しているのです。