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牧師のショートメッセージ

「神はただひとり」

浜田文夫 牧師    2025年8月


エペソ4章1節-6節

 エペソ人への手紙はキリストの教会について書かれていると言われます。けれども一読しただけでは、それほど教会のことが書かれてるようには感じないかもしれません。むしろ、1章から3章にかけてパウロが語ってきたことは、神が私たちを救ってくださったということは、どういうことなのか、ということでした。しかし、まさにそれが教会を語ることばとなってます。教会ということばを使わずに、教会を言い表すのです。私たちの救いの話をすると、それが教会の話しになる。なぜなら、私たちの救いとは、教会において実現し、完成するものだからです。

 そのような教会に私たちは神から招かれ、「その召しにふさわしく」歩むことが求められています。私たちはどのように神から召されたのでしょう。主イエスがお話しくださった「披露宴のたとえ」(マタイ22章1節-14節)には、王が開催した息子の披露宴に招かれた人たちのことが書かれています。本来、決して招かれるはずのなかった、たまたま大通りにいて、王のしもべたちと出会っただけの人間です。そのしもべたちに連れて来られた「良い人も悪い人も」含まれている人々です。「悪い人」がいたことよりも、「良い人」がいたことにこそ、私たちは驚くべきでしょう。そもそも何が良いことで、何が悪いことなのかの基準がみな違います。自分は正しく、他の人は悪いと思うのが私たちです。そのようにして初めから決して交わるはずのない異なる私たちが、ただ神の召しによって教会に生きる者とされました。

 「からだは一つ」、「御霊は一つ」と4節で言います。この「からだ」とはキリストのからだであり、「御霊」もキリストの「霊」のことです。続けて「主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです」(5節)と言います。ここには、「私たちの」ということばを頭につけて、私たちの「主は一つ」、私たちの「信仰は一つ」、私たちの「バプテスマは一つ」と読むことができます。そして、最後に6節で「すべてのものの父である神はただひとり」だと言います。三位一体の神が一つであるように、キリスト者たちが、ひとりの主、一つの信仰、一つのバプテスマによって、一つとされるようにと教会に招かれました。

 既に2章14節で、「実に、キリストこそ私たちの平和です。」と語り、そのキリストが、「私たち二つのものを一つに」してくださったとパウロは言いました。「このキリストにあって、建物全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮と」なる(2章21節)言います。そのために召された「その召しにふさわしく」歩む歩みとは、教会において、神の招きを受けた私たちによって実現するのです。そしてそれはただひとりである三位一体の神の救のみわざなのです。

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