牧師のショートメッセージ
「このキリストにあって」
浜田文夫 牧師 2025年5月
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。
神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して
くださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって
私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによって
ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 エペソ1:3-5
主イエス・キリストの受けられた苦しみを覚える受難節と、主イエス・キリストが三日目に十字架の死からよみがえられた喜びを分かち合うイースターを過ごしてきました。これから毎週の礼拝において、エペソ人への手紙を、神から私たちに与えられたことばとして、少しずつ一緒に聞いていきたいと思っています。
エペソ人への手紙の1章3節から14節までは、これが書かれた元々のことばでは、途切れのない一つのセンテンスで書かれています。しかし、決して冗漫な文章ではなくて、むしろ、きれいに整った見事な文章なのだそうです。そのため、これは当時の礼拝における讃美歌が元になっている文章だと考える人もいます。讃美歌ではなかったとしても、礼拝を導くために用いられたことば、祈りのことば、信仰告白のことばであったのかもしれません。
ここで神のみわざが語られています。讃美され、信仰として告白される神がどのようなお方であるのか、ということを語るのに、神の存在をまったく語りません。神は本当にいるのか、いるならばそれはどんなに優れたお方であるのかを証明しようとはしません。そうではなくて、神が何をなさったのか、その行為だけを記すのです。しかも、それは「私たち」に対する行為だと言います。「私たち」に焦点をピッタリと合わせた行為なのです。その行為は「祝福し」ということばに集中します。その「祝福」は、さらに「ご自分の子にしようと」される神の「愛」を明らかにします。そのようにして人間との関係性に対する行為として示されています。そして、その行為のすべてを、神は「キリストにあって」なされたと言うのです。
「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」
エペソ1:7節
私たち人間が、目に見えない神を認識するということ、神を知るということは、このイエス・キリストにおいて可能となります。神を信じるということは、「イエス・キリストにあって」なされたこの神の行為に応えることです。それは、私たちが「神の栄光をほめたたえる」という私たちの具体的な行為となって現れるのですが、それさえも「神の栄光をほめたたえるためです」(12節、14節)という神の、はじめからの目的の実現によるのです。