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牧師のショートメッセージ

「安息日の回復のため」

浜田文夫 牧師    2026年2月


出エジプト記20章8節―11節

 日本に住む私たちにとって「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」という戒めに生きるのは簡単ではありませんが、キリスト者にその意識さえ低いのかもしれません。しかしこの戒めは、殺人、姦淫、盗み、偽証、貪欲などを禁じる他の戒めと一緒に語られていて、その重みは同じです。
 神がイスラエルの民にこれを命じたのは、「主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだ」からだと言います。このことが書かれている創世記には「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。」とあります。
 申命記5章には、別の理由が書かれていて、「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない」からでした。奴隷であるために、休むことなど許されなかったところから、「主が」「導き出して」くださったことを、休むことによって覚えるのです。エジプトの王が課した生産のノルマからの解放を覚え、自分はもはやだれの奴隷でもないことの確認するのです。それは生産力によってのみ評価されるこの世に対して、まったく違う生き方があることを証しすることでもあります。何ができても、できなくても、生産性に関わらず「あなたは高価で尊い」と言われる神とともに生きることです。
 しかし、ただ一日中何もせず、寝て過ごせばよいのではなく、「これを聖なるものと」しなければなりません。これを他の日と同じように扱わず、神のための日とするのです。神が既にこの日を祝福してくださっていることによって、この日は「聖なるもの」とされているのです。そのようにして一週間という周期を、神を礼拝することを軸として、自分たちの生活の計画を立てるのです。

 イスラエルの民は長い歴史の中で、この「安息日」の祝福が失われ、「安息日」に仕事をしないことだけが目的となっていきます。そのために事細かな、してはならない仕事のリストができました。主イエスは「安息日は人のために設けられた」のであって、「人が安息日のために造られたのでは」ないと言われ、「安息日」を、神が祝福された日として取り戻そうとされました。人間がこの日に何をするか、しないかによってではなく、人間のためにイエス・キリストがどのようにふるまわれたか、ということによって「安息日」は「聖なるもの」とされることを証しされました。そして主イエスは、罪の奴隷であった私たちを、そこから贖い、解放してくださるために十字架の上で死なれ、三日目、「週の初めの日」によみがえられました。そのことによってこの日を「祝福し、この日を聖なるものとされた」のです。私たちも、またこの世界も、その祝福を中心にして生きるように招かれているのです。

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