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牧師のショートメッセージ

「光の子どもとして歩みなさい」

浜田文夫 牧師    2025年10月


エペソ5章1節-14節

4章1節は、「あなたがたは召されたその召しにふさわしく歩みなさい」との勧めで始まり、それ以降、神に救われた者がどのように歩むべきかが、語られていきます。5章1節では、「愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」と、8節では「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい」と勧められています。いずれも、キリスト者としてのふさわしい生き方が求められていますが、それらは、あなたがたがどのような者であるのか、ということが前提となっていることを見逃してはなりません。私たちがどのような者であるのか、という自覚が、私たちがどのように生きるべきなのかを決定することにもなるのです。

「主にあって光」となった私たちにとって、「光の子どもとして」歩むことが、最もふさわしいことなのです。そして「光は」「あらゆる善意と正義と真実のうちに」、「実を結ぶ」(9節)のだと言います。そこで光は、私たちキリスト者を通して実を結ぶのですから、私たちは「何が主に喜ばれることなのかを吟味」(10節)することが求められます。
光と対峙するのは「暗闇のわざ」(11節)です。それは、「あらゆる善意と正義と真実のうちに」何一つ「実を結ばない」のです。「しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます」(13節)

「光の子」とされた私たちも、心の中に自分だけが知る闇を持っているのかもしれません。私たちが本当に向き合うべきことはその闇なのです。そして、その闇を照らす「光」は、そのところでしか出会うことができないのでしょう。
ヨハネの福音書3章20節に「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」と書かれています。「光よりも闇を愛した」と言います。キリスト者になるということは、闇を憎み光を愛するということです。
「キリストがあなたを照らされる」(14節)とあります。キリスト・イエスは「すべての人を照らすまことの光」として来られ、十字架の上で私たちのすべての罪と闇とを負って死なれました。その光が届かない闇はありません。どんな闇も、この光に打ち勝つことはできないのです。このイエスの十字架の死が、私たちをいつも照らしてくださいます。だから、「眠っている人よ、起きよ。死者の中から起き上がれ」との御声に聞き従うことが「主に喜ばれること」なのです。?

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