牧師のショートメッセージ
「闇に打ち勝つ愛」
浜田文夫 牧師 2026年8月
ヨハネの福音書3章16節-21節
宗教改革者たちは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」という16節のことばの中に、聖書全体が言おうとしていることが凝縮されていると考え、大切にしました。そのため、これは、多くのキリスト者たちに知られ、愛されるみことばとなりました。
しかし、「永遠のいのち」とは、何を意味するのでしょうか。死ぬことがなく、いつまでも続くいのちを、すぐに思い浮かべる人が多いかもしれません。人は死に対する恐れと不安を、だれもが抱えているでしょうから、終わらないいのちがあることを聞けば、それは希望となるでしょう。けれども、もし生きることが苦痛や空しさに満ちたままであるならば、「永遠のいのち」そのものは、喜びでも希望でもありません。この「永遠」ということは、人間の持つ時間の概念や感覚を超えて、時に支配されることなく、時を忘れるほどの充実をも意味するのでしょう。それは神とともにある喜びと豊かさの中にあるいのちでもあるはずです。
反対に、「滅び」とは、その喜びと豊かさが一切ないいのちの中に、いつまでも生きることだと言えます。ですから御子イエスは「世をさばくため」に世に来られたのではない、「御子によってこの世が救われるため」だと言いますが、その御子を信じず「永遠のいのち」を持たないこと自体が、結果的にその人へのさばきとなっているのです。そのようにして「光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したこと」(19節)が、「滅び」となるのです。
ここで、「滅びることなく」というのは、滅びの中にいる当事者である者たちが、自分たちの滅びを憂い、案じているのではなく、「ひとり子をお与えになったほどに世を愛された」神の願いと意思なのです。そして、そのために神は「そのひとり子」のいのちを、十字架の死とさばきに差し出されました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。その姿は九十九匹の羊を野に残して、失われた一匹の羊を捜す人にもたとえられます。
この神の愛の中に生きるいのちの豊かさに、私たちは招かれているのです。
