牧師メッセージ、教会員の証
「神様との出会い」
私が生まれた家は、特に宗教にこだわりがなく、お葬式があればお坊さんを呼ぶ、 神社に行けばお賽銭を入れて願い事をする、などごく普通の家でした。 私が、初めて教会に行ったのは、クリスチャンの婚約者に誘われた時でした。 しかし、宗教に興味のない私は、結婚後は教会に通うことはありませんでした。 そんな中で、高2の娘が、洗礼を受けたいと言ったのです。 いつかは言ってくると思っていましたが、私の中では答えは決まっていました。 「まだ早い」。これは反対の意味ではなく、曖昧な知識、中途半端な気持ちでは認められない。 そのため、決断するには彼女はまだ未熟で知識も経験も少ないと思ったのです。 その晩、私と妻は激しく言い争いました。 妻は「教会に行ってもいないのにキリスト教のことがわかるのか?反対するのはひどい。」 と言いました。 私は、売り言葉に買い言葉で「わかった、行ってやる。行けばいいのか。」と言っていました。 それから、日曜の午前の生活が変わりました。 そんな生活が続いている中、私がキリスト教を意識するきっかけとなることがありました。 妻から三浦綾子さんの『氷点』を薦められ読んだことでした。 主人公の医師は、『赦す、愛する』を考え、キリスト教に感心を持ち、 大切な人(妻)に感謝とやさしさで接しようとするが、いつも何気ない言葉や行動で、 逆にひどい対応をしてしまうことに悩んでいる。 私も仕事でも家庭でも、こうしたいと思うこととは逆に、何気ない一言で逆の行為をしてしまう自分を 知っていました。そんな自分がいやでした。ある日、聖書の中に
『私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことを しているのでなく、自分が憎むことを行なっているからです。』ローマ人への手紙7章15節
の記載がありました。2000年も前からここに書かれている。そしてその後に
『それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。』
と書いてありました。誰にも話していないことが、見透かされているように感じました。 もしかして、人は神様に造られすべて知られているのではないかと思いました。 牧師から、イエス・キリストが罪人の私を愛して、ご自分から十字架で私の罪を背負って 死んでくださり、三日目に死に勝利してよみがえられたことを教えられました。
『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』 ヨハネの福音書14章1節
我孫子福音キリスト教会教会員 H.Y. 2016年9月