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牧師メッセージ、教会員の証

「救いの証」


 私は千葉市で育ちました。高校時代は将来の専門職を目標に大学を目指していましたが、3年生の夏、家庭の事情により、その道を閉ざされ、人生の目標を失ったような気持ちを持ったまま、国家公務員として就職しました。
 私の所属部署には、その年には私一人が配属され、職員は年の離れた人達ばかりでした。先輩達は皆親切でしたが、それぞれが抱えている人間関係を露骨に見せられ、大人の醜さを感じ、その中で感化されていきそうな不安を持ちました。
 次の年から都内の短大夜間部に入学しました。短大では、年の近い友人達との交流は楽しく、学ぶことにも喜びがあり、充実感がありましたので、職場での虚しさや不安感を紛らわすことができました。
 こんな生活が続いていたある日、友人からビリーグラハム国際大会(1967年秋)に誘われ、最初の日に参加し、自分でも驚いたことに、決心者として前に進み出ていました。この先生の話をもっと聞きたいという思いで、連日一人で通い続けました。この間、大好きな短大の授業を休み続けることは残念でしたが、今必要なものがここにある。この機会を逃してはいけないと思いました。
 特に心に残った話は、次の3点です。
1. 見つけられた金貨1枚
2. 捜し出された羊1匹
3. 放蕩息子
これらの話は、私自身に語られているように感じました。
 その頃の私は、社会に出てから置かれた環境に順応しきれず、しっかりした目標を持てず、学生生活を延長させることで、心の安定を得ようとしていました。そのようなさまよえる私を価値ある者として探して下さる方がおられることを知りました。
 その後、インマヌエル千葉教会を紹介され、出席するようになりました。同時に大会事務局により、学びのための通信教育が始まりました。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしがその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」ヨハネの福音書15章5節のみことばが与えられ、谷川の水を慕い求める鹿のように各集会に出席するようになりました。
 他人の悪いところが気になり、自分の中にある罪を自覚しない傲慢さを認め、イエス様の十字架の贖いによる赦しを信じ、受け入れることができました。その年の12月に洗礼を受けました。
 その後、福祉の仕事や教育等に導いて下さり、神様の助けをいただいて続けてこられました。
 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 ローマ人への手紙5章1~5節
 長い人生の中で、信仰者としての自分に弱さを覚えることもたびたびありましたが、このみことばに支えられてきました。
 現在、殆ど視力を失いましたが、この苦難を希望に変えて下さる神様を証しする者とさせていただきたいと思います。

我孫子福音キリスト教会会員 M.K 2018年8月12日

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