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牧師メッセージ、教会員の証

「救いの証」


 私は高校卒業まで、長崎県佐世保市で育ちました。高校卒業後、大学進学のため上京し、すでにクリスチャンになっていた兄と一緒に生活することになりました。兄や教会の皆さんが、熱心に声をかけて下さったので、フリーメソジスト小金井教会に出席するようになりました。
 私の高校時代は、人生について次のようなことを考えていました。
1. 人は何のために生きているのか。
2. 人とは何ものか。
人の理性、芸術的クリエイティブ
3. 均衡のとれた宇宙、超精密機械工場のような生命体
等を考えると設計・施工者がいるように感じていました。
 聖書を読み始めて、創世記第1章1節「はじめに、神天と地を造り給えり」以下の天地創造の部分が私の心を惹きつけました。神話とは全く次元の違う現実味のある内容に思わされました。そして礼拝、伝道会出席と聖書を読む生活が始まりましたが、信仰を決心するまでには、4年が経過しました。その間、青年会の同年代の兄弟が友人となって下さり、仲良くしていただいたことを感謝しています。
 ローマ人への手紙第7章14節~8章2節のみことばを与えられました。その中で特に第7章19節~20節(2017年訳)の「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。」のみことばに私自身の真の姿を見させていただきました。そこから真剣な求道生活が始まりました。
 しかし、神様を思想や哲学の産物として考えたくない私は、なかなか信じることができませんでした。大学4年生の冬休みに帰省しているとき、佐世保キリスト福音教会の先生が、歴史の大好きな私に「聖書考古学」の本を貸して下さいました。その本を読んで、遺跡の発掘によって、それまで誤りとされていた沢山の聖書の記述が事実であったことが証明されて行く様子を知って、聖書の神を生きておられる天地創造の神様として信じました。
 そして数日後のクリスマスの夜、キャロリングが終わった後、ひとり自室で祈りながら、イエス様のご降誕と十字架上の死が私の罪の贖いのためであることを信じ、罪を告白し、悔い改め、罪を赦していただき、キリスト者としてイエス様に従う決心をいたしました。
 その後、コリント人への手紙第1第15章12節~19節の文節の中で、17節、19節(第2版)の「そして、もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」を与えられ、パウロのこの告白の中に、ダマスコ途上における復活のイエス・キリストとの出会いが、事実であることを確信いたしました。
 私の信仰は、罪を犯すことがあっても、自分に失望して落ち込んでも、「神様は生きておられる、私たちの幸福を願っておられること、イエス様の十字架の罪の赦しと復活は事実であり、真理がある。」との原点に立ち返り、悔い改め、赦しをいただいています。

我孫子福音キリスト教会会員 K.K 2018年8月12日

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