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牧師メッセージ、教会員の証

「二階堂歌子姉の思い出」
《神様がどのように歌子姉を導いて祝福をされたかをお話します》


二階堂歌子姉は、1909年(明治42年)11月28日、東京の四ツ谷のお生まれです。二階堂兄とお見合いをされたそうですが「二階堂の嫁になるならクリスチャンに」と言われて、1938年(昭和13年)4月に、東京中野の上落合キリスト教会で洗礼を受けられました。その時は、クリスチャンになることをあまり深く考えなかったそうです。翌月の5月8日、同じ教会で結婚式を挙げました。結婚後は、満州大連にも住み、その後、東京大空襲で焼け出され、我孫子に住むことになりました。日立精機の社宅時代には、森田姉宅とお隣だったそうです。 1972年、リーベンゼラミッションの我孫子への宣教の始まりで、ドイツ人宣教師クレーマン先生ご夫妻が我孫子へ来られ、1973年10月から、歌子姉の家の近くのバレエ教室2階で礼拝を持たれるようになりました。「我孫子福音キリスト教会」と大きな看板を掲げてあったそうです。歌子姉は、家から近いことと、クレーマン先生ご夫妻のお人柄に惹かれて、この我孫子教会へ導かれ、柏教会から、1974年9月15日に転入されました。森田姉と依田姉と一緒でした。 私が歌子姉に出会ったのは、1987年、私が我孫子に引っ越してきた時で、すでに70歳後半でした。お謡いで鍛えたよく通る声としゃんとした姿勢で、きっぱりとした性格の方でした。
「謡」は日本の古典芸能の「能」の言葉とセリフの部分で、それのみを謡うことができます。謡曲とも言います。 私が我孫子教会にきた当時、教会の行事で笠谷兄(小田姉のお父様)と歌子姉がお謡いを披露されていました。私の祖母もお謡いを習っていましたので、とても親しみやすかったことを覚えています。
またその頃、木曜日に聖書の学びが行われていましたが、歌子姉は毎週参加され、米谷先生のもと、テキストから楽しく学んでおられました。書道も得意な方でした。 またお名前のとおり、賛美の好きな方でした。 有志で「賛美の出前」というグループを作り、歌子姉のお部屋まで数人でお尋ねし、月に1度、讃美歌を一緒に賛美していたことがありました。 「あさかぜ静かにふきて」(讃美歌30番)、「主我を愛す」(讃美歌461番 福音賛美歌52番)、「この世のつとめ」(讃美歌313番 福音賛美歌380番)が歌子姉の愛唱歌でした。
1988年の「老人の日 証集」に歌子姉の証が載っていました。梅雨に入ってから体調を崩し、歩けなくなったということがあったようです。 その後の事 「神さまと私」という題です。 ・・・途中から・・・  読ませていただきます。
皆様にお祈りして頂き、ありがとうございました。幸いにして憐れみ深き主に拠って、いやされ、こんなに元気になり、感謝しております。どうしてこんなものにまで、主は大きな御愛をもって励まし続けて下さるのかと思ったりいたしました。そして主は今まで元気にまかせて信仰以外のこの世との関わりをあまりに多く持ちすぎたことを気付かせて下さいました。以前と違って、家にこもりがちになりましたが、身辺整理して風通しがよくなり、思い煩いも少なくなり、静思して、信仰の歓びをかみしめております。大いなる主のみはからいによって、いろいろ気付かせて頂き、ほんとうに感謝することの多い日々でございます。 ・・・証集はここまでです。・・・
結婚を通して、歌子姉に神様と出会わせてくださり、クリスチャンホームを築かせてくださり、信仰から信仰へと進ませてくださり、102歳8か月という長寿をくださったこと、また、私たちに目に見える信仰の大先輩との交わりを与えてくださったことを感謝し、主の御名を崇めます。 御国で歌子姉と再び出会い、ご一緒に神様に賛美を捧げることが私の大きな喜び、希望です。
 最後に、歌子姉が大切にされていたみことばをお読みします。
Ⅰコリント1章18節  “十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、    救われる私たちには神の力です。”

我孫子福音キリスト教会会員 Y.Y 2019年3月23日

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