牧師メッセージ、教会員の証
救いの証
私がどのようにして、神様に捕らえられ導かれたかを、皆様に証する機会が与えられ、感謝します。私は罪深くて、いつも神様からもらいっぱなしです。この世で私が自分の力で手に入れたものはありません。
私は、埼玉県の蕨市で生まれ、祖父が興した小さな建設業の寮で父と母と姉に囲まれて育ちました。私は小さい頃から物事を口で説明することが、とても苦手な人間でした。5歳上の姉は論理的で、私の言動の意味をいつも私に問いました。私は問い詰められた時、もごもごして説明できず、惨めに思って、いつも泣いていました。又、私は自分のフィルターを通すと、ちょっと他人と違うんだなと感じていました。自分は変わっている、みんなと同じようにしなくちゃといつも思っていました。また、罪深い自分を後悔していましたが、どうすることもできませんでした。私はいつしか、自分の言動を人から問われた時の為に、自分ではなく、他人の言動を真似して言うようになりました。自分の意見ではなく「〇〇さんが言っていた」と言えば、間違っていたとしても、自分の考えではないので、強く指摘されても深い心の傷にはならなかったのです。そんな内向的な性格を心配して、未信者の父が5歳位から7歳位の間、近所の前川福音自由教会(現在は川口中央福音自由教会)の日曜学校に積極的に連れて行ってくれました。日曜学校で神さまのお話を聞き、こどもさんびかを賛美し、お祈りを教えてもらいました。父母が支える祖父の会社の事を母は「倒産する」といつも心配して叫んでいたので、寝る前布団の中で、「かみさま、どうか、かいしゃがとうさんしませんように。」と祈っていました。その意味もよく分からず、とにかく大変な事なんだと思って祈っていました。教会の方々はいつも私に優しくしてくださっていた事を思い出します。
中高生の時の自分は、何を決めるにしても姉にお伺いを立てていました。私は姉に否定されることが怖く、シスターコンプレックスでした。自分の本当の気持ちを心の中で見て見ぬふりをして、自分の意見を殺している自分を知っていました。私の人生は、自分を守り過ぎていて、自分の人生ではないみたいで、心の底でとても悲しんでいました。
短大のサークル活動で中国に道が開かれた時、姉の居ない世界を見つけてほっとしました。当時社会主義一色の中国の人々が、「私はこう思う」とはっきり断言し主張する姿を私は羨ましく思いました。私もそんな風に人の目を気にせず、自分の意見を守れたら良かったのに、と思いました。しかし思ってはいても自分を変えることはできませんでした。そして自分が生きている意味について考えると、虚しさを強く感じていました。
その後就職先で、台湾人の母を持つ恵美さんという女性と出会い、恵比寿にある「東京国際基督教会」という比較的大きな華僑の教会に連れて行ってもらいました。そこで私は生き生きとした留学生たちの信仰を見ました。そして私もこの人達のように輝きたいと思いました。
牧師先生は日本語教育を受けた世代の台湾の方で、当時60歳位の李聰顕牧師でした。留学生たちは母国を離れ、日本で働きながら勉強をしたり、仕事をしたり、それぞれが夢を持っていました。
それまでの私は、仕事以外は家に引きこもっていましたが、日曜日の礼拝と水曜日の仕事帰りの祈祷会には欠かさず教会に通うようになりました。
私はその教会で、失敗を恐れずに、夢に向かう方々の信仰を見ました。自分を守り過ぎて前に進めなかった自分だったけれども、神様が一緒ならば、失敗も失敗ではなく、痛手を負ったとしてもまた立ち上がれる、神様がいつも共におられるという、希望と確信をもらいました。そして自分が怯えていた何かから解放されたように感じました。教会には真理があると思いました。神様の教えは、小さい頃に通った日曜学校のように、全く違和感はありませんでした。そして、すぐに洗礼を受けたいと李牧師に伝え、1988年、19歳のクリスマスに洗礼を授けて頂きました。
その後の私のキリスト者としての生活は、神様に喜ばれることばかりではありませんでした。しかし、絶望の淵でも祈りの中に平安と恵をもらい、逆境が怖くなくなりました。それは、どんな時にも神様が私を見放さず、神様が共におられる事が分かる人生に変わったからです。私は自分がどうしょうもない罪人だし、すぐに絶望するので、神様に訴えて祈ります。本当に苦しい時には、聖霊様が励まし、イエス様が私の手を引いて下さり、悔い改めに導いて下さいました。
振り返れば、幼い時意味も分からず祈ったお祈りも叶えられています。また、その都度多くの試練や困難はありましたが、神様からの不思議なお導きや、お招きがありました。自分の望み通りにはならなくても、神様が示した道を祈りながら一歩一歩進む時、恵みと訓練がありました。
この世界に適応できず、消極的にならざるを得なかった私の人生が、神様によって積極的に生きる人生に変わりました。神さまにかかると、自分の短所がくるりと恵みに変わったり、絶望が希望に変わる事も分かりました。素晴らしい神さまに感謝します。
しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
へブル人への手紙10章39節
我孫子福音キリスト教会員 S.A 2022年4月15日(日)受難日夕拝