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牧師メッセージ、教会員の証

救いの証

 私は1965年に京都市で生まれました。両親、父方の祖母、妹と弟の6人家族の中で育ちました。私の祖母は京扇子を作り、販売する職人でした。私自身も子どもの頃から祖母の仕事の手伝いをしていました。私はいつも祖母の仕事部屋で祖母の傍らにいたように記憶しています。
 祖母は40代で夫(祖父)に先立たれ、職人さんを抱えて一人で子育てをして生きてきました。とても気性が強く、プライドも高く、私たちのしつけにも厳しい人でした。
 私が結婚して京都から我孫子に住むようになってからも、いつも私たち家族のことを気にかけてくれ、助けてくれる祖母でした。
 そんな祖母が病気になり、目が見えない状況になりました。今までのように職人として仕事ができなくなり、日常生活にも困るようになり、祖母の生活は今までとは全く違ったものになりました。
 祖母は自分の身体の不自由さや、精神的な落ち込みから、父や母、叔母や叔父、身近にいるさまざまな人といさかいを起こすようになっていきました。
 そんなとき、私は母からの電話で祖母の死を知らされました。私は、祖母が大変な中にあったにもかかわらず、何もすることができなかったことを後悔しました。「いったい私は何をしていたのだろう。」「もっと自分がするべきことがあったのではないだろうか。」「私は自分の大切な人が困っていたのを知っていたのにすぐに動かなかった。」と後悔ばかりして眠れない不安定な日々が続きました。

 そんな時に私は友人に誘われてこの教会の婦人の集会に集う機会が与えられました。以前私の二人の息子たちは、キリスト教保育の幼稚園に通っていました。聖書のお話を聞く保護者の集いやクリスマスの集会、聖書のみことば、イエス様の十字架と復活のお話を聞く機会は与えられていましたが、その時には自分のこととして受け取ることができませんでした。自分の弱さや自己中心なずるさをわかっていてもそこから目を逸らしてきました。きちんと認め、悔い改めることができず、今までなんとなく過ごしてきました。今までどこか自分から遠いところにしか感じていなかったイエス様の十字架が私の心に迫ってきました。ただ落ち込んで、お祈りもできない私のために牧師夫人がお祈りしてくださいました。そして、人間は弱く、罪人だから、いくら自分がこうありたい、こうなりたいと思っても、なかなかそうはいかない。神様を離れて自分でいくら頑張っても人間は何もできない。まことの神様から離れて生きていることが人間の罪であること、イエス様は私たちの弱さや罪をご存知で、私たち罪人を救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださるために、十字架にかかってくださったのだと語ってくださいました。そして聖書のみことばを読むこと、神様にお祈りすることを教えてくださいました。
 今まで誰にも話すことができなかった祖母の死、自分の後悔を私は初めて神様に打ち明けることができ、お祈りすることができました。少しずつ自分の心が落ち着いて神様から平安をいただきました。
 その後礼拝へと導かれ、聖書の学びをいただき、2002年12月に受洗の恵みにあずかりました。

 「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」 ヨハネの福音書15章4-5節

 「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」 エペソ人への手紙2章4-5節

 クリスチャンとしての歩みが始まってからもさまざまなことがありました。2010年に京都の父が肺がんになり、闘病生活が始まりました。私は我孫子と京都を往復し、なんとか父の治療が守られるようにと、祈る日々でした。
 その最中に今度は夫が大腸がんと診断され、2011年1月に手術となりました。肝臓にも転移が見られ、ステージ4のかなり悪い状況でした。手術の後も抗がん剤の治療が続きました。忙しさの中で、京都の父母のこと、夫のこと、今何を優先してするべきか、毎日考えながら、「ただ夢中で生活をしていた」というのが実状でした。そんな日々の中で、私は神様に、「これからもっと大変な状況になっても私がそこから逃げないように助けてください。愛する人を大切にすることができるように助けてください。」とお祈りしました。家族に助けられ、教会の方々にたくさん祈っていただきました。
 今振り返ると、あわただしい生活の中にあっても、主なる神様の御手の中にすべてのことがあること、主なる神様が臨在してくださっていることを感じて日々を過ごすことができていたと思っています。心から主に感謝いたします。

「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 コリント人への手紙第二12章9節 

 2011年8月に父は召されました。ずっと闘病に寄り添うことができ、イエス様の話、お祈りをすることもできました。父に神様のみことばが届いていますようにお祈りします。

 夫はがんの手術後もうすぐ10年が経とうとしています。5年生存率が十数%しかない厳しい状況から、すべての治療に主のお守りがあり、ここまで回復を与えていただけました。そして何よりも夫は2018年5月にイエス様を救い主と告白することができ、永遠のいのちの恵みにあずかることができました。主のみわざに主のご計画に感謝いたします。

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」 エペソ人への手紙1章4節

 このお証しをさせていただくにあたり、祖母や父の死のことを改めて思う時が与えられました。私が初心者の学びで神様のさばきの学びをしていただいた時に、当時の牧師に、祖母が今どうなってしまっているのか、と泣きながら尋ねたことを思い出していました。
 その時、先生は私に「神様のご支配の中にあることです。」ということだけを話されました。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 マタイの福音書11章28節

 すべてのことを知っていてくださり、最善をなされる主なる神様に、自分ではわからないこの重荷をすべてお委ねしていこうという信仰が与えられましたこと、主に感謝いたします。

 そして、母や、二人の息子たち家族の救いを強く願い祈りました。
 これから私たちがイエス様の福音を大切な家族に伝えていくことができますようにとお祈りします。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 ヨハネの福音書3章16節

我孫子福音キリスト教会員 J.K 2020年10月18日(日)伝道礼拝

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