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牧師のショートメッセージ

主にある生き方を思い起こさせる


田村誠喜 牧師    2016年2月

私(パウロ)はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。 彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、 あなたがたに思い起こさせてくださるでしょう。 Ⅰコリント4:17

 新しい年も、あっという間に一ヶ月半が過ぎました。当教会では2月28日の午後に決算総会が開かれ、 昨年、主から受けた恵みとその活動を数えて御名を崇め、今年も主の祝福を受け止める信仰を 確認したいと祈っております。

1.キリスト・イエスにあるパウロの生き方

 パウロは、いつも十字架のイエスの死をその身に帯びていました。キリストだけが自分の罪を十字架で 贖って下さったことを喜んでおりました。パウロには信仰によって与えられたイエスのいのちが現れていました。 それは神との平和であり、喜びであり、忍耐であり、希望でした。(参照Ⅱコリント4:7~11、ローマ5:1~5)

2.パウロの生き方を思い起こさせる忠実なテモテ

 テモテは、上記の御言葉でも語っているように、パウロのそばを離れないで仕え続けた忠実な 弟子でした。パウロにとって信頼して任せられる弟子であったのです。この忠実であることの 裏付けは、信じている主なる神がどんなお方かを知っていることです。 このことが忠実な歩みを支えます。マタイ25章14節以降では、与えられたタラントを喜び、 与えて下さった主人がどのような方であるかを良く知り、感謝と信頼をもってそのタラントを 用いたしもべたちを、主人も喜び、多くの物を委ねたことが語られています。 テモテはパウロのように「自分の信じて来た方をよく知っており、その方は自分のお任せしたものを かの日のために守ってくださることができると確信している」(参照Ⅱテモテ1:12)弟子です。

3.主の十字架のご愛と復活の御力を知らされたテモテとして生きる

 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。 しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネの福音書12:24)  私がこのように生かされてあるのは、主の十字架の贖いの死のゆえであり、 今もなお平安と喜びと希望のうちにあるのは、主の復活の いのちのゆえであることを覚えます。 私たちも主によって教会の交わりに、家庭に、職場に、学校に、地域に 遣わされているテモテとして、主にある生き方を現わしてまいりましょう。

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