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牧師のショートメッセージ

教会に与えられた神の恵み


田村誠喜 牧師    2018年8月

「・・私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。」 Ⅱコリント8:1~2

1、献金という神へのささげ物は、神が教会に与えてくださった恵みの奉仕である。
(1)献金の中心は、神が御子の十字架と復活の御業によって、信じる私たち罪人の罪を赦し永遠のいのちを与えて豊かな者として下さったことである。献金は、この計り知れない恵みを味わった者の神への感謝と献身の祈りであり礼拝である。「・・主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」Ⅱコリント8:9
(2)神へのささげ物は、あなたがいつまでも、あなたの神、主を畏れることを学ぶため。
「あなたは毎年、種を蒔いて畑から得るすべての収穫の十分の一を、必ず献げなければならない。・・あなたが、いつまでも、あなたの神、主を恐れることを学ぶためである。」申命記14:22~23、主を恐れるとは、天地創造の神への畏敬であり、罪人にも太陽を照らし、雨を降り注ぎ、豊かな実りを与え喜ばせて下さる神への恐れ多い感謝である。 参照、マタイ5:45、使徒14:17
(3)献金は、御心に私たちが仕えることであり、神が私たちを祝福するためである。
「三年の終わりごとに、その年の収穫の十分に一を全部持ち出し、あなたの町囲みの中に置いておかなければならない。そうすれば、あなたと同じようには相続地を割り当てられていないレビ人や、あなたの町囲みの中にいる寄留者や、孤児や、やもめが来て食べ、満ち足りるであろう。それはあなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」申命記14:28~29

2、献金をささげる者の信仰姿勢について
(1)聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって懇願した。参照Ⅱコリント8:4、神が、パウロを通し献金について教えているⅡコリント8章9章には、「熱意・熱心」が多く出て来る。これは献金が神への深い感謝と熱い思いから出て来ることを教えている。更に聖書は、この神への熱心や熱意は、神の御心に添って悲しみ悔い改めて、神との豊かな交わりが与えられるところからもたらされることを教えている。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。・・」Ⅱコリント7:10~11
(2)惜しみながら、いやいやするものではない。参照Ⅱコリント9:5、7、この「惜しみながら」という言葉は、罪のリストに出て来る「貪欲・貪り」と同じ言葉。聖書は、貪りの罪は、神が与えてくださった恵みを感謝せず、神のものを盗む罪で、偶像礼拝だと教えている。参照マラキ3:8~11、コロサイ3:5、エペソ5:5、
(3)献金は、わずかではなく豊かにささげるもの。「わずか」と言う語源は「惜しむ」(ローマ8:32)で、献金額の少なさを意味しているのではなく、神への信仰と感謝のわずかさを示している。「豊かに」の語源は「祝福・賛美」の意味で、献金額の多さではなく、神の恵みや祝福に感謝し、神を賛美(祝福)して献げていることを表している。
 あなたの神へのささげ物はどのような献げものと言えるだろうか。

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