牧師メッセージ、教会員の証
「新しくされて」
私は香川県の小さな村で生まれ育ちましたが、19才になるまで聖書を手にすることは ありませんでしたし、近くの町に教会があることも知らずにいました。
中学校に進む頃、自分の内面、心にあるものに悩み、向き合うことになります。親しい友が出来、その友にとって 私は最高の友人でありたいと願いました。しかし、泣く友といっしょに泣くことはできても、喜びを共有することができませんでした。 友が自分より成績がよかった時、人々から賞賛を受けている時、それを「良かったね」と心底喜んであげることが 出来なかったのです。こうありたいという願いとはうらはらに私の心にあったのはねたみであり高ぶりでした。 そんなことは隠して「わたしはあなたの真の友」と装う自分が偽善者にみえました。これは私にとって、とてもつらい事でした。
ある日「道は開ける」という本を読み進めてゆくうちに、次のような聖書のことばが目にとまりました。 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれどもあながたの天の父が これを養ってくださるのです。」 このことばが心から離れず、 「天の父とある神さまについてもっと知ることができますように」 と祈ったのです。 その数週間後に、ポストに教会のトラクトが入っていたのをきっかけに聖書通信講座を受けるようになり、 教会に通うようになりました。
その夏参加した集会で「皆さんのもっている100円玉が、もし地におちて砂に埋もれてしまえばその硬貨は価値のないものです。しかし人の手に握られて、人が使う時、はじめて価値あるものとなるのです。私達も生ける神さまを離れては、価値ある人生を歩むことはできません。天地をつくられ、あなたをつくられた神に立ち返りなさい。」とみことばが語られました。中学校の頃から感じ悩んだ「心のうちにあるもの」が罪だと知り、自分の力ではどうしても変えることのできない罪をゆるし、きよめ、神に立ち返ることができるようにと、イエス・キリストが私のかわりに十字架で罪の罰を受けて下さった。
20才の時イエス・キリストを救い主と信じ、長い年月がたちましたが、どんな時も祈りを聞き、 共に歩んで下さる神さまを「天の父」と親しく呼べる幸い、恵みは何ものにも変えることができない宝です。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 第2コリント人への手紙5章17節
田村 美智代(我孫子福音キリスト教会 牧師夫人) 2014年9月