牧師メッセージ、教会員の証
「神のなさることは時にかなって美しい」
私は7人兄弟の6番目に生を受けました。 その私が初めて教会に行ったのは、中学1年生で父が病のため入院し7か月後 天国に旅立った頃です。 すでにクリスチャンとなっていた次兄の関係で、 父は入院中、教会の二人の宣教師のお見舞いを受けるうちに、 聖書の神様を信じたようで、教会式の葬儀でした。 今から60年前の事で、キリスト教の葬儀は田舎では珍しく、 近所の人々をびっくりさせたようでした。でも私には、悲しみの中での 賛美がとても不思議になる位、今でも心に残っています。 その後、長兄と次姉も教会に行くようになり、信じて洗礼を受け、 月に一度、宣教師と神学生によって家庭集会も行われ、 私も意味が分からないまま出席していました。 私と妹は、町の「教会の日曜学校に行ってみたら」と次兄に薦められ、 日曜日には教会に行きイエス様の話を聞いたり、讃美歌を歌いながら楽しい時を過ごしました。 しかし、それ以上のことは理解できず、一年余りで教会へは行かなくなりました。 年月が経ち、就職してからもイエス様、神様のことは頭の片隅に追いやり、 自分から教会へ足を運ぶことはありませんでした。
結婚のため上京し、二児の母となり、我孫子での生活が始まった頃から、 毎日の生活と育児の大変さに明け暮れるようになり、楽しいはずの生活が苦しく、 自分は何のために生きているのだろうかと、人生の空しさを覚える日が続きました。 そのような時、先に上京し、すでにクリスチャンになっていた長姉より教会の小冊子が届けられ、 読んでいるうちに、私の心が少しずつ穏やかに変わっていきました。 そして同じ頃突然に、すでに東京に出て来ていた次兄の知り合いであった、 当時我孫子の宣教師が家に訪ねて来られ、 「お兄さんにお会いしました、教会で婦人会がありますから出席しませんか」と言われ、 当日車で迎えに来て下さったのです。 婦人会で何を学んだかは覚えていないのですが、宣教師の奥様の優しい眼差しを今でも忘れられません。 姉が送ってくれた小冊子に
「神のなさることは、時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた」伝道者の書3章11節
また
「天の下では何事も定まった時期があり、すべての営みには時がある。」伝道者の書3章1節。
この二つのみことばを通して、神様は私に永遠を思う心と今が丁度神を信じるその時だということを 教えて下さったのだと理解しました。 教会に通ううちに自分が罪人であること、その私の罪を赦して下さるために、 身代わりとなり、イエスさまが十字架で死んで下さったことを信じることが出来ました。 そして宣教師に誘われてから半年後にイエス様を信じ洗礼を受けました。 その後、神様は主人をも救ってくださり、今一緒に教会に行き礼拝を捧げています。 身体の弱い私ですが、何時も支えて下さいます神様に日々感謝しています。 自分から求めていった信仰ではありませんでしたが、イエス様の愛と憐れみの深さをかみしめています。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」 第一コリント13章13節
我孫子福音キリスト教会会員 T.F 2017年7月