牧師メッセージ、教会員の証
「救いの証」
私は小さいころから母に手を引かれ、この我孫子福音キリスト教会に来ていました。 私の中の一番古い記憶は、この場所に会堂が建てられる前にバレエ教室の2階を借りて礼拝が行われていた当時、 教会学校の先生や上級生が布をかぶっている光景です。今思えばクリスマスでイエス様のご降誕をお祝いする劇でした。 「なぜみんな布をかぶっているんだろう」と不思議な思いで眺めていたことを思い出します。 また当時は、ドイツ人のワイペルト先生が宣教師として来られていて、外国人に馴染みのなかった私には、 背が大きくてとても恐かった印象が強く残っています。
日曜学校では、「イエス様が十字架で私達の罪のために死なれたこと」 「よみがえられたイエス様は今も生きておられこの世界を支配されていること」を何度も学びました。 姉と二人で毎週礼拝に行き、奥多摩で行われるキャンプにも参加し、聖書の教えを自分なりにぼんやりと理解していました。 しかし私の中では、教会でのことと日常の生活のことは別のもので、教会に対しての違和感が次第に大きくなり、 教会からも聖書からも離れた生活を送るようになりました。
聖書の教えをぼんやりと理解していたと言いましたが、今思うとその理解は浅く、 本当の意味においてキリスト教と他の宗教の違いも分からず、私には宗教は必要無いと思うようになっていました。 そのあいだも母と姉は礼拝を守り、2人が教会のことを楽しそうに話していたり、 居間のテーブルの上に置かれている聖書を見ると何かうしろめたい気持ちを感じていました。
教会から離れているあいだ、母に教会に行くように言われたことはありません。教会は強制されて行くところではなく、 神様との関係のなかで思いが与えられるまで待ってくれていたのだと思います。一方、姉は教会のイベントがあるとさりげなく、 それでいてしつこく誘ってくれました。また日曜学校の先生も忘れずに案内やお手紙を送ってくれました。 しかし私はことごとく背を向けていました。先々また教会に行くことがあるかもしれない、でも今ではない、 そのように思っていました。
そんな生活が長く続き、社会人になり学生時代とは違うさまざまな価値観の中で迷い悩むようになりました。 周囲の人達がとてもできる人のように見えて、自分には軸というものがなく人の意見に振り回される日々に疲れていました。 そのようななかで少しずつまた教会に行きたい、絶対的な神の存在というものにもう一度ふれたいという気持ちが呼び起こされ、 私は再び教会に戻ってきました。
久しぶりにお会いする教会の方々はなつかしく、でも照れくさく、それでいて家に帰ってきたような安心感に満たされました。
日曜日に教会に行くと、自分が浄化されるような感覚をおぼえました。
ある年の夏の青年キャンプに参加したときに、同年代の参加者達が真剣に神様と向き合い、
神様を強く求めている姿を目の当たりにし衝撃を受けました。自分がいかに神様に対して中途半端な態度でいたか、
神様を無視していたかを思い知らされました。また今まで神様を知っていながら背を向けていたこと、
それでも神様は決して途切れることなく突き放すことなく、母や姉や日曜学校の先生を通し、あらゆる機会を使い、
私の気持ちの扉を叩き続けてくださったことをおぼえ、深く悔い改めました。
見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。 だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、 彼もわたしとともに食事をする。 ヨハネの黙示録3:20
信仰の反抗期を経て教会に戻ってきてから、いつかは洗礼を受けるのかな、そういう日がくるのかなと思っていましたが、 気持ちの中でまだハードルがあり、きっかけを掴めずにいました。そのようなとき、 イースターの礼拝でイエス様が十字架にかかって死なれ3日目によみがえられたというメッセージが語られました。 子どものときから幾度となく聞いているメッセージです。 しかしそのとき初めてイエス様の十字架の死を自分のこととして理解をすることができました。 「十字架につけろ!十字架につけろ!」と叫ぶ群衆の中の私がリアルに迫ってきて、 イエス様の十字架の死は私の罪のためだったということを素直に受け入れることができました。
子どもの時にはよく分からなかった聖書の箇所がスルスルと理解ができて「そういうことだったんだ!」と 腑に落ちる経験を何度もする中で、少しずつ受洗をしたいという気持ちが与えられ、 26歳のときに洗礼を受けることができました。
幸いなことよ。 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。 主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。 時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。 詩篇1:1
日々の生活の中で、御言葉に従って生きることの難しさを感じています。 それでも主は中途半端ではなく徹底して仕えよと御言葉を通して語られます。昼も夜も主のおしえを口ずさみ、 主を見上げて歩んでいきたいと思います。
我孫子福音キリスト教会会員 K.T 2018年4月1日 イースター礼拝