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牧師メッセージ、教会員の証

「救いの証」


 私は1970年(昭和45年)7月に千葉県柏市で生まれました。私の家はクリスチャンホームで、私は男4人兄弟の二男でした。  幼きころから父に連れられて教会学校に行き、聖書を学ぶときが与えられていました。子どものころ、友達のように日曜日に他に遊びに行きたいと思ったことはなくはありませんでしたが、今になって振り返るってみると、大切なときを与えていただいていたんだなぁと実感しています。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(伝道者の書12:1)」

 小学5年生のときに松原湖のバイブルキャンプに行きました。そのときお世話になった先生と手紙のやりとりをするようになりましたが、先生からの手紙の最後にいつも「Mくんが救われることをお祈りしています」というような内容のことが書いてあり、返信でいつも「イェス様を信じています。教会にも家族と一緒に毎週行っていますので、大丈夫です」というような返事を書いていました。そのときは受洗するという概念が私にはあまりなく、よくわかりませんでしたが、あとになって、先生は私が受洗するということを願っていたということに気付きました。  中学生になってからは、両親、兄、母方の祖父母と一緒に、伯父が牧師をしている教会の礼拝に出席するようになりました。礼拝のメッセージは中学生の私には難しくわからないことも多かったですが、繰り返し語られる聖書のみことばを少しずつ理解できるようになっていきました。  聖書のみことばを聞く中で、人は生まれながらにして、神様に対し罪があることを学びました。

「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ人への手紙5:12)」

 また、普段の行いにおいても、気付かないうちに、まわりの人たちに対して寛容でなかったり、親切でなかったり、自慢したり、高慢になったり、自己中心的であったり、怒ったり、人の悪口を言ったりしていることに気付かされ、自分が罪深いもの、弱い存在であることを知るようになりました。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。(Ⅰコリント13:4~8)

 しかし、そうした中、神様があわれんでくださって、救いの御計画を用意してくださっているから、落胆することはなく希望があるということを聖書から学び、そのことを理解して気持ちが楽になりました。イェス様が私の罪のために身代りになってくださったことを信じ、15歳のイースター(1986年3月30日)に受洗しました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3:16)」

 受洗してから、このことを自分だけではなく、まわりの人たちにも伝えていかなくてはという思いは絶やしたことはありませんが、一方ではそう簡単ではないことも経験しました。信仰的な未熟さを痛感させられ、自分では何もできないのではないかと思うこともありました。しかし、与えられる賜物は人それぞれであり、みことばを宣べ伝えていくのにさまざまな役割があり、できることを心からすることと、よりすぐれた賜物を熱心に求めることが大事だということが示されました。

「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。(Ⅰコリント12:12)」「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。(Ⅰコリント12:31)」

 日々の歩みの中ではさまざまなことがあり、良くない考え方が出て来ますが、みことばが示され、考えを変えることができることに感謝を覚えます。  聖書に書いてあることを正しく理解したいという思いはますます強くなります。  これからのときも、神様にすべて委ねて祈り求めて歩んでいきたいと思っています。

我孫子福音キリスト教会会員 M.A 2018年8月12日

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