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牧師メッセージ、教会員の証

救いの証

 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」コリント人への手紙 第二12章9節、10節

 この聖書の箇所は、私がイエス・キリストが私の罪のために十字架にかかってくださった救い主であることを信じて、生きていく決心を後押してくれた御言葉です。
 私は、クリスチャンホームで生まれ育ちました。両親はクリスチャンでしたが、身近な親戚や周囲にクリスチャンがいたわけではありません。最初に、キリスト教と出会ったのは、私の母でした。母が短大卒業後、就職のために宮城県の田舎から上京し、そこで宣教師が行っていた英語クラスに出席したのが、教会へ行き始めるきっかけとなりました。その後、母の誘いをうけて当時、同じ会社に勤めていた父も教会へ行くようになり、結婚する前に2人ともクリスチャンとなりました。今考えると、父母もそれぞれ、田舎の神棚などがあるキリスト教とは全く無縁の世界で育った2人でしたが、イエス様に出会い信じることができ、その両親のもとに生まれることができたことは、神様からの素晴らしいプレゼントであったと感謝しています。しかし当時は、小さい頃からあたりまえのように毎週教会へ通っていたので、この世界をお造りになられた神様の存在も純粋に信じていましたが、教会で語られる、罪や十字架ということはどこか他人事のように感じていました。そのような、鈍いわたしの心にイエス様が光を当ててくださったのが、中学2年生の夏に参加した約5日間のバイブルキャンプでした。奥多摩の自然豊かな環境の中で、思いっきり遊びつつ、聖書の話を聞くときが与えられ、そこで自分が罪深い人間であることを知り、こころ刺されるという初めての経験をしました。イエス様が私の罪のために死んでよみがえってくださったということは、教会で、小さい頃から何度も聞いていましたが、あまり深く自分の罪ということについて考えたことがありませんでした。むしろ、私は教会に行っているが、周りの教会に行っていない人たちは、滅びに向かっていて、自分は違うと、自分の力ではないのに、自分を誇るそんな人間でした。でも、人からどう見られるか、思われているかが怖くて、年齢を重ねるごとに教会に行っていることを、誰にも言えないような弱さを抱えていました。しかし夏のバイブルキャンプで、いつも自分中心にもの事を考え、神様に背を向けて生活をしてきた、そのことが本当に大きな罪だということを知らされました。私のような弱い、みじめな人間は、神様の前に出ることができないと落ち込みましたが、次の聖書の御言葉に励まされました。

 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強いものを恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されているもの、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
 肉なるものがだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。コリント人への手紙第一1章27節~29節
 こんな私を選んでくださる、なんて素晴らしいお方に出会えたのだろうと、クリスチャンホームに生まれたことを感謝しました。それと同時に、神様のはかりしれない愛を感じ、この私の罪のために、イエス様が十字架にかかってくださった、ということが分かり初めて涙が止まらないという経験をしました。そして、神様に、自分が罪人であることを告白し、悔い改めますと素直に祈ることができました。しかし、イエス様を救い主と告白しつつも、またもとの自分中心な生活に戻ってしまうのではないか、こんな弱い私がクリスチャンとして、世の中で生きていくことができるだろうかと不安に思う時に与えられたのが、今日、冒頭で読んだ「私が弱いときにこそ、私は強い」という聖書のことばです。この御言葉によって、私が弱いときにこそ、強いのなから、自分に弱いときはもうないじゃないか、と神様から力をいただきました。そして、洗礼を受ける決心をし、19歳の時に受洗しました。
 洗礼を受け約20年が経ちましたが、その間、困難や苦しみがなくなり、すべてが順調というわけではありません。受験や、就職、結婚、出産など、様々な事柄があり、自分ではどうにもならない弱さや無力さを感じる時が多々あります。しかし、どのような中にあっても、自分の罪が赦され、そして私のことを愛し、強めてくださる神様が共におられる平安がいつもあります。
 現在、2歳と0歳の子どもがいます。子どもが与えられるようにと祈っていましが、結婚してから、中々子どもに恵まれず、年齢的に夫婦2人の生活か、養子という選択もあるのでなはいかと考えていた時期もあったので、妊娠が分かったときはとても喜びました。しかし、1人目の妊娠中の仕事帰りに、何の前触れもなく出血が始まりました。産科で働いていたことがあり、ある程度の知識はあったので、妊娠初期であることや出血量から、もしかしたらすでに流産してしまっているかもしれないと震えと涙が止まらないまま夜間の病院へ行く車の中で、「神様助けてください!」と祈り続けました。結局、出血の原因は不明でしたが、お腹の子は無事に守られ、切迫早産という診断と1か月程度の安静という診断書が渡されました。その後、無事に迎えた出産の日は、この上ない喜びとともに、神様の愛が迫ってくるような不思議な経験をしました。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネの福音書3章16節

 この何度も聞いていた聖書の御言葉が、産まれきた子どもに会ったときに、子どもを失うかもしれないと感じた時の悲しみ、自分が親となり改めて、私の罪のために神様が大切なひとり子であるイエス様をこの世に送ってくださったことが、どれほどのことなのか、どれだけ私が愛されているのかを示されるという経験をしました。今現在も、子育てや未信者の夫を通して、自分の足りなさや忍耐力を試されているような日々を送っていますが、夫と子ども達が、自分の口でイエス様が救い主であることを信じて告白する日がくるようにと祈っています。

 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。 伝道者の書12章1節

 1日でも若いうちに、罪が赦され神様が共におられるという安心と喜びがある人生を家族で一緒に歩むことができればと願っています。

2019年12月 婦人クリスマス集会での証 教会員 A・U

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